宗旨
14.本願力
~浄土真宗の根源~
本願力とは
「本願力」とは、私たちをすくってくださるための阿弥陀如来のはたらきです。「あらゆる人びとを平等にすくいたい」という阿弥陀如来の願い(本願)が、その願いの通りに成就したはたらき(力)なので、本願力といいます。また、「他力」といっても同じことです。
南無阿弥陀仏におさめられたはたらき
本願力は、南無阿弥陀仏の名号として私たちに与えられています。阿弥陀如来は自らの徳をすべて名号におさめてくださったので、名号には、私たちが浄土に往生して仏となるのに必要な徳が完全にそなわっているのです。
浄土真宗のポイント
さて、浄土真宗の教えには「名号」「信心」「念仏」などさまざまな言葉が登場しますので、聞いていて混乱してしまうことがあるかもしれません。実は、これらを明確に整理するポイントがあるのです。それは、「名号も信心も念仏も、すべて本質は同じく本願力である」ということです。
先に説明したように、「あらゆる人びとを平等にすくいたい」という本願を実現するために、阿弥陀如来は自らの徳をすべておさめた名号を作り上げてくださいました。これが、名号の本質は本願力ということです。そして名号が私のこころに至り届いたとき、名号のはたらきによって私の往生成仏が決定します。そのように私のこころに名号が至り届いたところが信心です。さらに名号は、往生成仏が決定した私の口から声となってあらわれます。これが念仏です。
根本は同じ
以上のように、名号・信心・念仏の本質は同じく本願力であるということを踏まえておけば、教えを聞いていくなかで、
「浄土真宗の法義の根本は阿弥陀如来の第18願にある」
「お名号によってすくわれるのが浄土真宗です」
「信心ひとつによってお浄土に生まれさせていただきます」
「ただ念仏のみぞまことにておはします」
といった言葉が出てきても、「どれが正しいのか?」と混乱することはないでしょう。根本的な立場はいずれもかわらないのですから。
自力の否定と他力本願 ~浄土真宗は怠け者の教えか~
俗語の「他力本願」
「他力本願」という言葉があります。この言葉はもともと浄土真宗の大切な言葉ですが、残念ながら本来の意味とは違うマイナスイメージの俗語として広まっています。
俗語の「他力本願」の場合、「他力」は他人の力という意味で使われています。そして「本願」は自分の願望という意味で使われています。ですから俗語の「他力本願」は、自分に都合のよい願いのために他人の力をあてにするという、怠けた姿勢をあらわす言葉になってしまっているわけです。
浄土真宗本来の「他カ本願」
一方、本来の「他力本願」の場合、「他力」は阿弥陀如来のはたらきをさしています。そして「本願」は「すべての人びとをすくって仏と成らせよう」という阿弥陀如来の願いをさしています。つまり本来の「他カ本願」とは、阿弥陀如来の願いを実現させるはたらきを意味する言葉であり、「本願力」と同じ意味なのです。ということは本来の「他カ本願」には、自分に都合のよい願い、などという意味はまったく含まれないわけで、結局、俗語の「他力本願」は誤用が定着したものということになります。
自力とは何か
浄土真宗において他力本願をたよりにするということは、「自力を否定する」ということでもあります。この自力の否定ということも、日常生活の努力を否定するような消極的な態度と誤解されがちです。
浄土真宗における「自力」とは、「浄土に往生して仏と成るために」自分の行為を役立てようとすることです。たとえば四国八十八箇所をお遍路した人が、往生成仏のための功徳を積むことができたと考えるならば、それは自力です。一方で生涯人びとのために尽くしてきた人が、自分の往生成仏は阿弥陀如来のはたらきひとつで定まっているのであって、自分のしてきたことなど往生成仏のためには何一つ役立たないと考えるならば、それは自力ではありません。
誤用につられない
「他力本願」の誤用が広まってしまっているからといって、私までそれにつられて「浄土真宗は他力本願だから消極的なのだ」などという思い込みにとらわれることがあってはなりません。自力を否定し、他力本願をたよりに生き抜いた親鸞聖人のご生涯は消極的だったかといえば、断じてそんなことはなかったのですし、他力がはたらいてくださるからこそ、真実にかなった人生を送らせていただけるのですから。