宗旨
16.聞くことが信心
~そのままが信心~
「聞く」とは
「聞く」という言葉は日常的になにげなく使われていますが、浄土真宗の「聞く」は、なにげなくない、とても大切な言葉です。親鸞聖人は、聞くというのは阿弥陀如来の本願を聞いて疑うこころがなことであり、信心をあらわす言葉であるとお示しくださいました。
何を聞く?
阿弥陀如来の本願を聞くというのは具体的に何を聞くのかというと、阿弥陀如来が本願をおこされた由来と、阿弥陀如来が本願を成就して現に私たちを救済しつつあることを聞くのです。
このことは『大経』に説かれています。阿弥陀如来、すなわち法蔵菩薩が本願をおこされた由来は、煩悩の迷いのなかに沈み続ける凡夫の私がいたからです。そして法蔵菩薩は、本願を成就するために果てしない修行を重ね、阿弥陀如来となられて、いままさにすべての人をすくうために活動しておられます。
まとめていうと、「阿弥陀如来の本願を聞く」というのは、迷いに沈み続ける私であるということと、その私を間違いなくすくってくださる阿弥陀如来が活動しておられるということを、「聞く」ということなのです。
どのように聞く
そして親鸞聖人は、本願を聞いて「疑うこころがない」のが信心である、と示されています。私たちは普段、いろいろと価値判断を加えて納得することで疑いを解消しています。しかし本願を疑いなく聞くというのは、そうやって価値判断を加えて納得することではありません。むしろ逆です。
阿弥陀如来は、煩悩に迷い苦しむこの私を間違いなくすくうために、南無阿弥陀仏の名号として、いままさに活動しておられます。私が納得してもしなくても、それが真実。そのように聞くのが、疑いがないということです。納得しようとして「ならばこのような場合はどうなるのか」などと価値判断を加えようとすると、かえって本願を聞き損ねます。疑うこころとは、本願に対する私の価値判断のことなのです。
私の価値判断を加えず、本願をそのまま聞くということが、浄土真宗の信心です。すなわち、「かならずすくう、まかせなさい」という南無阿弥陀仏の名号が、そのまま私のこころに届いてはたらいてくださることなのです。