宗旨
19.念仏申す人生
~どうして念仏をとなえるのか~
すくってもらうためではなく
浄土真宗の人生は、念仏申す人生です。「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえるすがたは一見すると、「阿弥陀さま、どうかおすくいください」とお願いしているように見えるかもしれません。しかし浄土真宗は、念仏をとなえてすくってもらう教えではありません。すでにすくっていただいた者が念仏をとなえるのです。
感謝とよろこびの念仏
私たちは、信心をいただいたその時に、阿弥陀如来のすくいにあずかり、往生成仏が間違いない正定緊の位にならせていただきます。そのすくいは何があっても決してくつがえることはありません。決してくつがえらないすくいのなかにある者が、「どうかおすくいください」という思いで念仏をとなえる道理はないわけです。
南無阿弥陀仏は、「あなたをかならずすくう、まかせなさい」という阿弥陀如来からのよびかけであり、そのよびかけに対する「はい、おまかせします」が、私のとなえる南無阿弥陀仏の念仏です。この念仏を、「報恩の念仏」といいます。私をすくってくださる阿弥陀如来のご恩に報いるということです。といっても、ご恩返しのために念仏するのではありません。何かしなくてはならないと義務のように考えるのではなく、ただすくいのよろこびのなかで念仏をとなえさせていただくことが、そのまま真実の報恩となるのです。
他力の念仏
この報恩の念仏を、他力の念仏ともいいます。阿弥陀如来のはたらきにより、となえさせていただく念仏だからです。本来、 念仏をするこころなどもち合わせていなかった私なのではないでしょうか。そんな私がいま、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、正定緊とならせていただいているのです。そのよろこびからとなえる念仏は、表面的には私がとなえているようでも、「信じさせ、念仏させ、往生させよう」という大悲の仏心がめぐまれているすがたであります。別のいいかたをすれば、本願力が私の口ではたらいているのが他力の念仏であるということです。
そして、その念仏はそのまま、阿弥陀如来がいまここで私によりそっていてくださるすがたなのです。