CLOSE

SCROLL

宗旨

2.親鸞聖人の生涯

誕生、 父母、妻、子ども

聖人は承安3(1173)年、 日野有範の子として京都東南郊外の日野の地で誕生したといわれています。母は江戸時代に「吉光尼」との名も浮上しますが、確実な根拠はありません。聖人は治承5(1181)年春、9歳の時に伯父の日野範綱に伴われて、慈円のもとで得度して、範宴と称しました。 また聖人の誕生日は旧暦で4月1日、 現代の太陽暦では5月21日です。これも江戸時代前期より、高田派の学僧普門が唱えたもので、それを本願寺が採用した日付です。

聖人は建仁3(1203)年4月、六角堂の救世観音の夢告を得て、間もなく婚姻したと考えられています。そして恵信尼と結婚し、小黒女房・慈信坊善鵞・信蓮坊明信・益方大夫入道有房(道性)・高野褝尼・覚信尼が生まれました。恵信尼は越後介三善為教の娘と考えられています。また、「日野一流系図」には、別に範意(即生)という子息も記されていますが、詳細はわかりません。

なお、室町時代成立の「親鸞聖人御因縁」には九条兼実の娘玉日と結婚したと伝承され、それが先の系図に取り入れられたため、 聖人最初の妻は玉日であるという伝承が生まれることになりました。

源空(法然)聖人の門化へ、そして承元(建永)の法難に

親鸞聖人は比叡山での20年間、さとりの道を探求しました。この時期の活動は「恵信尼文書」に「堂僧」(常行三昧堂に奉仕する僧)と確認されるのみです。世俗化する比叡山への失望か、自力の行では煩悩を断ち切れない自己への絶望か、ついに山を下りて、建仁元(1201)年、29歳の時、聖人は六角堂で百日間お堂に籠る参籠を志しました。95日目の明け方、聖徳太子が現れて言葉を告げました。そのことを恵信尼は、「95日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」と記しています。聖人は太子の示現を得て、東山吉水で専修念仏を説く源空聖人のもとに百日の間通い、ついに阿弥陀如来の本願に帰する身となり、源空聖人門下に入りました。

源空聖人は当時69歳で、専修念仏に帰依してすでに26年が経過していました。源空聖人は、建久9(1198)年に九条兼実の求めで『選択本願念仏集』を著して、その念仏の教えは貴族や武士、そして民衆に広がっていました。

門下での親鸞聖人は、4年後『選択本願念仏集』の書写と「源空影像」(肖像画)製作を許される高弟となっていました。比叡山などから強い批判を受けていた源空聖人でしたが、元久元(1204)年、比叡山の衆徒が源空聖人の念仏を停止する決議をしたため、「七箇条の制誡」を書いて専修念仏者の自戒を記し、これに190人の門弟が署名しました。親鸞聖人は「綽空」と署名しました。さらに翌年、興福寺が九箇条を書き留めて(「興福寺奏状」)、専修念仏の停止を朝廷に訴えました。そして後鳥羽上皇の女房が別時念仏に出かけて出家する出来事を契機に、上皇により建永2(1207)年2月、専修念仏停止を命じられ、安楽房などの弟子が死罪、源空聖人と親鸞聖人は讚岐(香川県)と越後(新潟県)へそれぞれ配流にされました(「承元(建永)の法難」)。聖人は、藤井善信という俗名をつけられ、妻の恵信尼ら家族とともに越後に赴きました。

この流罪について聖人は、『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)のなかで「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一 つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」と記しています。聖人は後島羽上皇の不当な専修念仏弾圧を批判するとともに、もはや国家の繁栄を願う僧ではなく、また、世俗に迎合する「俗」でもないことを表明されました。

ただ親鸞聖人にとって流罪生活が、民衆世界への深いかかわりをもつ契機となり、宗教体験、思索を深めるうえで大きな役割を果たしました。事実、聖人の思想の集大成『教行信証』は、関東在国中に執筆が開始されています。聖人は建暦元(1211)年、赦免のあとも越後にとどまり、建保2(1214)年、常陸(茨城県)に向かいました。関東への移動ルートは「恵信尼文書」のなかに上野国佐貫(群馬県)がみえる程度で、これ以外は定かではありません。

聖人の聖徳太子信仰

聖人が聖徳太子を尊崇していたことは、その徳をたたえた『皇太子聖徳奉讃』などを著しているところからもあきらかです。聖人が太子を尊崇するに至ったのはさきの六角堂での参籠の際に、聖徳太子のお告げとともに関東における善光寺信仰の広がりが大きく関係していました。

善光寺の本尊は阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩の弥陀三尊(善光寺式弥陀三尊)ですが、善光寺の勧進聖(募財を募る聖)たちは鎌倉時代、その善光寺如来と聖徳太子との間で消息(手紙)の往返が行われたとの説話を用い、如来と太子が共同で念仏者を極楽往生の道にみちびく活動をし、多くの人びとの信仰を集めました。このように善光寺信仰には太子信仰が深く関わっていたのです。

聖人はその足跡が勧進聖の移動ルートと一致するとして、彼らと行動をともにしていたと考えられています。善光寺聖との関わりにより、聖人の関東の地での伝道のつながりが形成されたのでした。

東国での伝道と門弟たち

聖人は常陸を中心に伝道につとめました。聖人の門弟の名前を記した 『親鸞聖人門侶交名牒』があります。常陸20・下(ふさ)5・下野5・武蔵1 ・陸奥7・越後1・遠江1・京都8、合計48人の門弟が記載されています。名簿の外にも手紙などにも30人ほどの名が記されており、さらにその門弟のもとに集う門徒がいたので、かなりの門徒数になります。

聖人の門弟は、拠点とした地域名を集団の名称としていました。下野国高田の真仏・顕智と中心とする高田門徒、下総国横曽根の性信を中心とする横曽根門徒、常陸国の教念を中心とする布川門徒、順信を中心とする鹿島門徒、善性を中心とする蕗田門徒、武蔵国の光信を中心とする荒木門徒、下総国の常念を中心とする佐島門徒など、聖人は、念仏の教えに集う人びとを同朋といい、門徒は信心の集団(教団)をつくり出したのでした。

示 寂

聖人は関東での伝道活動を門弟にゆだね、嘉禎元(1235)年頃、京都へ帰洛します。京都での聖人は子息善鸞による念仏のまちがった伝授で、 関東門弟の動揺がおこり、善鸞を義絶するなど、悲痛な事件もありました。 聖人は、 関東時代に執筆をはじめた『教行信証』を、京都でも改訂を続けるなど、晩年、著述活動に力をそそぎました。

聖人の著作は多数に上りますが、宝治2(1248)年76歳のとき『浄土和讃』『高僧和讃』、建長2(1250)年78歳のとき 『唯信鈔文意』、建長 7(1255)年83歳のとき『尊号真像銘文』(略本)『愚禿鈔』 『皇太子聖徳奉讃』、正嘉2(1258)年86歳のとき『正像末和讃』、文応元(1260)年88歳のとき『弥陀如来名号徳』などを精力的に書きました。

聖人は。弘長2年11月下旬から体調をくずし、ついに28日、三条富小路の善法坊で示寂しました。現在の暦では1263年1月16日にあたります。聖人の臨終には、覚信尼と益方入道(道性)の肉親とともに、門弟の遠江池田の専信や顕智らも立ち会いました。「僧にあらず、俗にあらず」「愚禿」を貫いた90歳の生涯でした。


お車でお越しの方

【九州自動車道】
〈福岡方面から〉九州道「鞍手IC」下車 一般道で約4km。
〈北九州方面から〉九州道「八幡IC」下車 バイパス・一般道で約7km。

公共交通機関でお越しの方

【JR筑豊本線】
福北ゆたか線(折尾~桂川) 直方駅下車 徒歩約4分
【平成筑豊鉄道】
伊田線 直方駅下車 徒歩約4分
〒822-0034 福岡県直方市山部540番地
お電話でのお問い合わせ
TEL:0949-22-0636
ファックスでのお問い合わせ
FAX:0949-22-0667
メールでのお問い合わせ
MAIL:saitoku@ace.ocn.ne.jp