宗旨
20.浄土という世界
~さとりの世界~
浄土はあるのか
「 浄土って本当にあるんですか?」。浄土真宗の教え触れたとき、多くの人が抱く疑問でしょう。
結論をいえば、浄土は確かにあります。ただし、そのようにいえるのは、私が「ある」と判断したからではありません。阿弥陀如来が「浄土に生まれさせよう」と誓われた本願の教えを、ただそのまま聞かせていただいているのです。
そのように答えると、次にはきっと「どうやってそれを証明するんですか?」という問いが返って来ることと思います。
これも結論をいえば、証明はできません。少なくともこの私には。浄土はさとりの世界です。といことは、仮にどれだけ頭脳が明晰であったとしても煩悩に満ちた者が証明できる世界ではないということです。さとりをひらいた仏さまだけが、さとりの世界である浄土を正しく知見し、正しく説き示すことができるのです。
だから、「浄土がある」ということは、仏さまの教えをそのまま聞かせていただくところ以外では語りえないのです。
限りない光の世界
親鸞聖人は、阿弥陀如来の浄土を「無量光明土」と示してくださいました。そはれ限りない光に満ちあふれた世界、あらゆる闇を破る阿弥陀如来の智慧が、 限りなくはたらき続けるさとりの世界です。阿弥陀如来のはたらきによって浄土に生まれたならば、無量の光のはたらきによって、どのような煩悩もさとりの功徳へと変えられます。それはまるで、海へと流れ込むさまざまな川の水が、すべて同じ海水となっていくような、広大なはたらきです。
美しき西方の世界
また浄土は、西方にあって、清らかな蓮華が咲く美しくかざられたさとりの世界として説かれています。さとりの世界を正しく知見することのできない私をさとりにみちびくために、阿弥陀如来はこうして浄土の具体的な方角を示し、具体的な美しい様子を示してくださっているのです。それを「単なるつくり話」「昔の人の空想」などと捉えることは、一見合理的なようで、浄土があらゆるものをさとらしめる世界であるという、最も大切な本質が脱落した見方といわねばならないでしょう。
かならずふたたび会える世界
そして、阿弥陀如来の浄土は、かならずふたたび会うことのできる世界です。私たちは、阿弥陀如来よりめぐまれる他力の信心によって、浄土に往生させていただきます。誰もが同じ他力の信心をめぐまれて、同じ浄土に往生させていただくのです。いまここで同じ信心をいただき、ともに阿弥陀如来のすくいにあずかっているからこそ、かならず浄土で再び会えることの確かさを、いまよろこぶことができるのです。