宗旨
22.迷いの世に還る
~浄土からのはたらき~
浄土から迷いの世界へ
阿弥陀如来の浄土に往生した人は、すみやかにさとりをひらいて仏となります。といっても、ただ浄土にとどまっているのではありません。阿弥陀如来の本願力によって、阿弥陀如来と同じ大いなる慈悲のこころを起こし、この迷いの世界に還り来て、煩悩に迷い苦しむすべての人びとをすくいたいとはたらき続けるのです。そのはたらきは、釈尊が巧みに人びとを教化されたように、自在であり、限りがないはたらきです。
「迷いの世界に還る」と聞くと、多くの人は幽霊などを連想してしまうと思いますが、そういったものとは根本的に違います。さとりをひらいた仏のはたらきは、固定的・実体的にとらえることはできません。人のかたちをとるかもしれませんし、そうではないかもしれません。いずれにしても間違いないのは、浄土に往生したものは、かならずこの世界に還り来て、さまざまなご縁を通して人びとに仏法をすすめていくということです。
いまは他者をすくいたくてもままならない、それどころか自分自身が煩悩の迷いのなかにあるのが私です。その私が浄土で仏となり、自在のすくいを行うことができる道が浄土真宗なのです。
親鸞聖人にとっての源空聖人
ひとつの特別な例として、親鸞聖人は、師である源空聖人を浄土からこの迷いの世界に還り来てくださった方と受け止めておられました。といっても、何か神秘的な現象があったからそのように受け止めていたなどというわけではありません。親鸞聖人が接していた源空聖人は、悩みもし、苦しむすがたもみせる、ひとりの生身の人間であったことでしょう。
源空聖人は、インドから遠く離れたこの日本で、阿弥陀如来の真実の教え、本願念仏の教えをあきらかにしてくださいました。ここに親鸞聖人は、浄土から還り来てくださった方の確かなはたらきを受け止めていかれたのです。
亡き人のご縁
次もひとつの特別な例です。1歳にも満たない子が亡くなったとしましょう。阿弥陀如来の教えを聞きよろこぶこともなく、もちろん、一声の念仏もとなえることなく亡くなってしまったわけです。理屈で考えるならば、浄土に往生して成仏しているとは、とてもいえないでしょう。
しかし、私が仏前で手を合わせる身になれたのは、その子のおかげと気づいたとき、その子が浄土からこの世界に還り来て、私を導いてくれたのだと味わえる世界があります。
浄土真宗の教えは、亡き人の行き先や、亡き人が往生成仏したかどうかといったことを、他人事として論じるものではありません。どこまでも、この私自身のことが問題にされなければ虚しい議論になります。ですが、 私自身が阿弥陀如来の教えを聞いていくなかで、亡き人を、浄土から還り来てくださった方と敬っていくことのできる道が開かれるのです。それが、浄土真宗ならではの尊い世界でしょう。