宗旨
23.慚愧と歓喜
~念仏者の生きかた~
よろこばしい哉
阿弥陀如来のすくいに出あえたことは、この上なくよろこばしいことです。親鸞聖人はそのよろこびを、とてもあうことは難しく、聞くことも難しい教えに、既にいま、あうことができ聞くことができましたと述懐されています。
私の努力ではあうことなどできない仏法に、あうことができたとこころの底から吐露された言葉です。
悲しき哉
すくいのよろこびを吐露する親鸞聖人が、「悲しきかな」とも述べられています。信心をめぐまれてすくいのなかにあり、往生成仏が決定した仲間「正定聚」になりながら、そのことをよろこばず、たのしむこともない、恥ずかしく、嘆かわしいわが身であると述懐されるのです。
信心のよろこびが深まる
弥陀如来のすくいを聞くことは、大きな安心を得ますが、同時にそのすくいをよろこべない私がいる事実も知らされます。そこには、このような私をすくう阿弥陀如来であったかと、さらにすくいのよろこびが深まります。信心のよろこびは漸愧と歓喜がとめどなく深まっていきます。
「心にまかせず、 たしなむ心は他力なり」
浄土真宗のすくいは「他力だから、信心ひとつ、何もしなくていい」。これは私がすくわれることに関して、私の力を一切あてたよりにしないということです。しかし浄土真宗のすくい、にあった私は、そのすくいのよろこびから、拙く至らないながらも怠りがちなこころにまかせず、たしなむこころが生じてきます。
念仏者の生きかたは、人それぞれ異なって、画一的な行いは決められません。それは、本願の教えを自らの究極的なよりどころとして、人生のさまざまな課題に応えていこうと、一人ひとりが精一杯にたしなんでいくことにあるからです。
「報ずべし」「謝すべし」
「恩徳讃」として有名な親鸞聖人の和讃には「報ずべし」「謝すべし」とあります。返すことができないご恩を頂戴した上は、「少しでも・・・」「せめて・・・」と、自らたしなんでいくこころが生じてくるのです。