CLOSE

SCROLL

宗旨

3.本尊と南無阿弥陀仏

阿弥陀如来という仏さま

限りない仏さま

浄土真宗のご本尊、 つまり私たちが帰依する仏さまは阿弥陀如来です。「阿弥陀」とは、インドの言葉「アミターバ」(無量光)および「アミターユス」(無量寿)の「アミタ」(無量)を音写した言葉です。つまり阿弥陀如来とは、無量の光と無量の寿の仏さま、ということになります。

無量光とは、空間的に無限であり、どんな場所にもそのすくいは届いている、という徳をあらわしています。また無量寿とは、時間的に無限であり、どんな時代にもそのすくいは届いている、という徳をあらわしています。

無限のよびかけ

阿弥陀如来は無限の仏さまであるという、この一見途方もないお示しは、私自身の本質的なありかたに直結しています。思えばこれまで私は、阿弥陀如来のおこころを知りもせず、また、そのおこころを知ってもなお、背くように生きてきました。その私に対して阿弥陀如来は、「この阿弥陀にまかせなさい」と、ずっとよびかけ続けてくださっていたのです。それは、私がどこで、いつ、何をしていようとも決して途切れることのない、無限の呼びかけでした。

逃げるものを追いかけてつかまえる

その無限のよびかけによって、ひとたび私が阿弥陀如来におまかせしたからには、阿弥陀如来は何があっても絶対に私を捨てることはありません。

私のこころは、どこまでも不確かなものです。ある時は阿弥陀如来をありがたいとよろこべても、ひとたび予期せぬ厳しい縁に遇えば、阿弥陀如来のことなどこころから消し飛んでしまうことでしょう。そのように、縁によっては阿弥陀如来に背を向けてしまうような私を、阿弥陀如来はどこまでも追いかけてつかまえてくださるのです。「摂取不捨」といわれるこのはたらきが、阿弥陀如来というお名前のいわれであると、親鸞聖人は示してくださっています。

阿弥陀如来をありがたいと思えないとすくわれないのなら、そのようなこころをもち続けることのできない私は、絶対にすくわれることはないでしょう。しかし、そんな私をどこまで追いかけてつかまえてくださる摂取不捨の阿弥陀如来だからこそ、不確かなこころのままに、私のすくいは確かであるとありがたくよろこぶことができるのです。

南無阿弥陀仏~阿弥陀如来のお名前~

阿弥陀如来=南無阿弥陀仏

「教章」の「ご本尊」の項には「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」と示されています。「南無阿弥陀仏」を「名号」といいます。名号とは名前という意味です。つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀如来のお名前ということです。どうして「阿弥陀仏」に「南無」をつけた「南無阿弥陀仏」が阿弥陀如来のお名前ということになるのでしょう。「南無」がつくことに意味はあるのでしょうか。

「まかせなさい」の南無阿弥陀仏

南無は「帰依」という意味です。そこで一般に南無阿弥陀仏とは、「私は阿弥陀仏に帰依します」という、私から阿弥陀如来に向かっての宣言であると考えられてきました。それに対して親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とは「この阿弥陀仏に帰依しなさい、まかせなさい」という、阿弥陀如来から私にむかってのよびかけであると、一般の考えとは反対方向の意味があることをあきらかにしてくださったのです。

先回りの南無阿弥陀仏

阿弥陀如来は、私が「お助けください」と頼んでからようやくすくいに来てくれるような仏さまではありません。私が阿弥陀如来に気づきもしなかったときから「この阿弥陀にまかせなさい、かならずあなたをすくいとります」とよびかけ続けてくださっていた、先回りの仏さまなのです。つまり阿弥陀如来という仏さまは、南無してくださる(よびかけてくださる)仏さまなので、南無阿弥陀仏がそのまま阿弥陀如来のお名前ということになるのです。

「はい、おまかせします」の南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」が阿弥陀如来からのよびかけならば、私のとなえる南無阿弥陀仏はどういう意味になるのでしょう。私が阿弥陀如来にむかって、「阿弥陀にまかせなさい」といっているのでしょうか。

こんなたとえがあります。赤ちゃんが「ママ」という一言を発するようになるのは、母親が自ら「ママですよ」とよびかけ続けた結果です。それと同じように、いま私が南無阿弥陀仏ととなえているのは、阿弥陀如来がさまざまなご縁を通じて南無阿弥陀仏とよびかけ続けてくださったからにほかなりません。つまり私のとなえる南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来からの「この阿弥陀にまかせなさい」に対する「はい、阿弥陀さまにおまかせします」なのです。

嘘ではない方便~阿弥陀如来のお姿とご本尊~

かたちのない境地から、かたちのある境地へ

阿弥陀如来の本質は「法性法身」であると説かれます。色もかたちもなく言葉で表現することも認識することも不可能な、真実のさとりそのものということです。それは、煩悩に満ちた私たちが接点をもつことのできない境地です。しかし法性法身は、煩悩に満ち、迷い苦しむ私たちを放置するようなことはありません。必然的に、私たちをすくおうと活動してくださいます。その活動として、認識不可能な境地から認識可能なかたちをとってあらわれてくださったのが、阿弥陀如来という仏さまなのです。

方便法身は真実の仏さま

この、かたちをとってあらわれてくださった阿弥陀如来を、法性法身に対して「方便法身」といいます。「嘘も方便」という言葉に引っ張られてか、この方便法身が法性法身に比べて一段落ちるもののように考えられることがありますが、それは誤解です。そもそも法性法身と方便法身とは別々の仏さまではなく、法性法身が活動するすがたが方便法身です。そして何よりも法性法身に接点をもちえない私がいるからこそ、方便法身の阿弥陀如来があらわれてくださったということを忘れてはならないでしょう。

ご本尊は怖いものなどではありません

掛軸などのかたちで安置されている浄土真宗のご本尊には、「 方便法身尊号「方便法身尊像」などと書かれていることがあります。これは、浄土真宗のご本尊が、阿弥陀如来を、名号やおすがたといった具体的なかたちで表現したご本尊であることを示しています。

そのご本尊について、「 扱いを間違えると良くないことがおこるのでは… 」という心配をする方がおられます。しかし、ご本尊が災いをおこすなどというのは、浄土真宗の教えのどこにも根拠のない迷信です。心配する必要はまったくありません。

蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」という言葉を残されています。もちろん、ご本尊やお聖教を粗末にせよと仰っているのではありません。ご本山やお聖教が破れるほど浄土真宗の教えを繰り返し聞き味わうことが何より大切であると仰っているのです。災いを恐れてご本尊をおっかなびっくり扱うよりも、ご本尊が破れるほどに浄土真宗の教えに親しんでいただければ、それほどよろこばしいことはありません。


お車でお越しの方

【九州自動車道】
〈福岡方面から〉九州道「鞍手IC」下車 一般道で約4km。
〈北九州方面から〉九州道「八幡IC」下車 バイパス・一般道で約7km。

公共交通機関でお越しの方

【JR筑豊本線】
福北ゆたか線(折尾~桂川) 直方駅下車 徒歩約4分
【平成筑豊鉄道】
伊田線 直方駅下車 徒歩約4分
〒822-0034 福岡県直方市山部540番地
お電話でのお問い合わせ
TEL:0949-22-0636
ファックスでのお問い合わせ
FAX:0949-22-0667
メールでのお問い合わせ
MAIL:saitoku@ace.ocn.ne.jp