宗旨
8.仏説観無量寿経
~王族の愛憎劇を通じてひらかれる念仏の教え~
王舎城の悲劇
『仏説観無量寿経』は『観経』ともよばれます。この経典は、釈尊在世当時、マガダ国の王宮・王舎城で起こった事件を舞台にしています。マガダ国の太子阿闍世は提婆達多にそそのかされ、父王の頻婆娑羅を牢獄に幽閉してしまいました。頻婆娑羅の妃であり阿闍世の母である韋提希は、ひそかに夫のために食物などを運んでいましたが、発覚して自分自身も息子に幽閉されてしまったのです。
釈尊は、幽閉された韋提希の求めに応じて耆闍崛山から現れてくださいました。その釈尊に対し韋提希は、苦悩のない世界を与えて欲しいと懇願し、阿弥陀如来の浄土へ生まれたいと願いました。釈尊はその願いを聞き、阿弥陀如来の浄土に生まれるためのさまざまな方法を説きはじめられました。その説法が、『観経』の主な内容となっています。
浄土に生まれるためのさまざまな行
阿弥陀如来の浄土に生まれるための方法としてまず、精神を統一して浄土や仏さまがたのすがたをありありと観るという行が説かれます。そしてその次には、人間の資質に応じて、経典を読誦する・戒律をまもる ・親孝行をするなどといった、精神を統一せずにするさまざまな行が説かれます。
最後の最後で念仏のすすめ
ところが、経典の最後の最後になって釈尊は、「南無阿弥陀仏の念仏ただひとつをこころにとどめなさい」と説かれるのです。『観経』に説かれたさまざまな行のなかでも、念仏は最低の資質の者のための行とされています。その念仏が、ほかの行をさしおいてすすめられているのです。
悪人のすくい
そのことに注目して、煩悩に満ちた悪人がただ念仏によって浄土に往生する教えこそが『観経』の中心であり、阿弥陀如来の本当の願いであると見抜かれたのが、七高僧のおひとりである善導大師でした。
そして、その善導大師のお示しを受けて親鸞聖人は、愛憎のなかで苦しみもがく阿闍世や韋提希らこそ、煩悩に満ちた私たちの本質と、そのような私たちが念仏によってすくわれることを教えてくださった尊い方がたであると、『観経』の深いおこころを受け止めていかれたのでした。