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境内のご案内

山門

西徳寺のある直方はその昔「東蓮寺」と呼ばれ、新入村の一部で村里はなく、高い丘と野原があるだけでした。東蓮寺藩は福岡藩初代藩主黒田長政の「領地を3つに分け、長男忠之に本家を継がせ、三男長興には秋月五万石を与え、四男高政には四万石を与えて鷹取古城のあたりを治めさせよ」という遺言に従い、元和9年(1623年)に福岡藩の支藩として成立しました。高政は鷹取から一里半余隔てた東蓮寺に居を定め、寛永3年(1626年)に現在の殿町 双林院のあたりに館を築き、同11年(1634年)にこの館に入りました。この時、福岡から連れてきた家臣も移り住み(殿町)、商工業者もこの地(古町)に集まって初めて町ができたのです。

寛永16年(1639年)、高政は28才で亡くなりましたが嗣子(跡継ぎ)がなかったため、本家の忠之の次男之勝が第二代の東蓮寺藩主となりました。

第二代之勝は寛文3年(1663年)に亡くなりましたが、之勝にも嗣子がなく、福岡藩第三代藩主黒田光之の三男長寛(綱政)を東蓮寺藩第三代藩主として迎えます。この長寛統治中の延宝3年(1675年)、東蓮寺の地名が付近の名をとって直方と改められました。延宝5年(1677年)、本藩の事情によりすでに東蓮寺藩主となっていた長寛が福岡藩の嗣子に決まり福岡に帰ったため、東蓮寺藩は廃止され、その所領は福岡藩に返還されます。しかし実際には明石助九郎と喜多村半右衛門に直方の支配が命じられ、廃藩後もそれまでと同様の支配が行われていたようです。

元禄元年(1688年)、福岡藩では光之が致仕(官職をやめること)して綱政が第四代藩主となりますが、これを機に綱政は弟長清に一万石を加増した五万石の所領を与え、ここに再び直方藩が成立、長清が第四代藩主となりました。元禄5年(1692年)、長清は館を妙見山(今の御館山)に移します。広さが一町八畝あまりの壮大な構えで、周りに堀をめぐらし、堀の外に家臣の屋敷をつくり商人の町(新町)もできました。今回のお話の主役である西徳寺の「山門」は、実はこの妙見山の館から移したものと言われています。ただ、それが館のどの門なのかは、横門、櫓門等の記述があるのですが、今ひとつはっきりしません。藩内の建物や道幅などを記した『直方藩御曲輪内諸口間数記』を見ると「裏御門東西長サ弐間」とあり、その他の門の間数は山門の大きさと合わないため、この門は直方御館の裏門を移築したものではないかと指摘される方もいます。直方御館に勤めていた村瀬小左衛門義幹という人が後年になって書き記した御館の見取り図が今現在残されていますが、これも門に関してはあまり正確には描かれていなため、門の位置の特定には至っていません。

さて長清は享保5年(1720年)病死しましたが、長清の長男継高は福岡藩の養嗣子となっていたため、直方藩には嗣子がおらず、またしても直方藩は廃藩となり、所領は福岡藩に還付されました。『直方市史』ではこの年に直方館の門を西徳寺に移したとなっていますが、寛延3年(1750年)に直方代官 井手牛之助が甘木代官となり直方を離れるまではこの館は残っていたのではないかとの指摘もありこのあたりは再考の余地がありそうです。

こうしておよそ300年前に建てられ、西徳寺に移された門は、時に機関車の煤煙で化粧され、時に台風の被害を受けながらもその姿を保ち続け、ついに昭和63年3月15日、直方御館の現存する唯一の遺構として直方市の指定文化財となりました。今現在、建立当時の木材がどの程度残っているかは今後の調査を待たねばなりませんが、この門が、直方の盛衰の様を静かに見守り続けてきたことだけは間違いないでしょう。

皆さんが何気なくくぐっていた西徳寺の山門が、こうした歴史を持った「宝物」だったことを、ぜひぜひ覚えておいてください。

南無阿弥陀仏

(平成13年12月~平成14年4月に柱、扉、彫刻の修理、腐食部分の補強、基礎コンクリート工事等の改修工事を実施)
住職 篠田尊徳


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