境内のご案内
後藤裏梅の墓
西徳寺裏の墓地の中に、松尾芭蕉の流れを汲む俳人
芭蕉の流れを汲む俳人たち
前回、松尾芭蕉が一度も来たことのない九州に、二〇五基もの芭蕉の句碑がある、と書きましたが、それらは弟子たちが芭蕉の俳諧を全国に広めていった結果によるものでした。
直方にも、向井去来、志太野坡などの芭蕉の高弟が来て俳諧の種を播いていきました。
向井去来は芭蕉の高弟の中でも第一人者と目された京都の俳人で、長崎からの帰りに直方の頓野の俳人原田一定のもとに草鞋を脱ぎました。芭蕉が死んでから五年たった元禄十二年のことです。
一定は去来の三十年来の弟子、福岡藩の医者でしたが頓野の山里に六畳一間の庵を建てて隠栖、俳諧三昧の暮しを送った人です。
志太野坡は大阪在の俳人で、九州をはじめ西国地方をめぐり歩き享保三年に直方を訪れています。この時、多賀宮の神官青山文雄、直方藩士有井浮風などが野坡に入門、間もなくこの二人を中心に直方俳壇の黄金時代が出現しました。
享保十三年、野坡は再び直方を訪れ、弟子たちとともに上野の皿山や白糸滝を見物し、
投入れて滝見顔なり折つつじ
の句を残しました。またそのとき文雄は、
くれて行春引きとめよ滝の糸
さらに浮風は、
けふのみと芽花の花を惜しみけり
と、それぞれ詠んでいます。
有井浮風は、武士を捨て、野坡の弟子として俳諧の世界に生きました。浮風の歿後、その妻なみは剃髪して尼となり、諸九と号して、同じく俳諧の道に専念し、江戸中期の日本の代表的な女流俳人として名を残しました。
文雄や浮風、諸九尼は芭蕉の孫弟子に当りますが、かれらの弟子の西徳寺主梅嶺や、岡森堰を築いた渡辺善吉(鳥竹)らは曾孫弟子ということになります。
このように、弟子から孫弟子、さらに曾孫弟子へと芭蕉の俳諧が伝えられ広められ、それに伴って句碑も増えていったのでした。
山部の西徳寺裏の墓地に、すでに訪れる人もなくなった一基の墓があります。「釈義證裏梅墓」と彫られた墓石には、この人を偲ばせる碑文が刻まれています。その二百年の風雪を経た文字から、この人が芭蕉の流れを汲む、「風月の夕、花鳥の朝」を愛した後藤裏梅という俳人であったことを知ることができます。恐らく芭蕉の曾孫弟子のまた弟子であったと思われますが、裏梅もまた、無名ながら芭蕉の俳諧を伝えていった俳人の一人であったのです。
(『直方 碑物語』 第31話 昭和58年12月号
文:舌間信夫氏 発行:直方市 より)