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境内のご案内

林芙美子滞在地記念文学碑

告白するが、私は直方に来るまで「林芙美子」なる女流作家の名前を全く知らなかった。入寺前に初めて西徳寺を訪れた平成七年秋、境内地にその滞在地記念碑があることを、わざわざ石碑の前まで行って説明をうけたような気もするが、それすらはっきりと覚えてないぐらい私の意識の中にない名前だったのである。直方に来て、皆が当たり前のように林芙美子の名前を口にするのを聞いて、今日まで言い出せずにいたが、事実なのでしょうがないと開き直ってこの文章を書いている。彼女の滞在地記念碑きについて語るには我ながら不適切な人物と思えるが、まずはお許しを頂いて読み進めていただきたい。

記念碑は、鐘楼(鐘撞堂)の奥、桜の木の陰のあまり目立たないところに、ひっそりと置かれている。場所柄、よくお寺に足を運ばれる方でも、その存在を知らないのではと思うことがしばしばである。

林芙美子は明治三十六年(1903年)、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に生まれる。芙美子の母キクは、鹿児島の桜島で家庭を持っていたが、実家の宿屋に逗留していた宮田麻太郎と恋仲となり、門司に駆け落ち、そこで芙美子をもうける。このあたりについて芙美子自身は『放浪記』の中で、「父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのは、その下関の町である。」と書いているが、実際の駆け落ち先は貿易港として急速に発展をみせだした門司であり、小森江という土地のブリキ屋の二階に住んだようである。父麻太郎は、山陽線の終着駅ができて人出も多く、活気がでてきた対岸の下関で質屋の加勢をして商才を発揮、その後独立して「軍人屋」という質流れ品を扱う店を開業する。明治三十七年(1904年)、まさに日露戦争の時代である。時流にも乗り商売は大繁盛、九州各地に支店を出し、三年後には本店を若松に移した。この頃の芙美子一家の生活は、経済的にかなり恵まれていたようである。

しかし明治四十三年(1910年)、事業に成功した父 麻太郎が家に芸者を入れたためキクは芙美子を連れて出奔、麻太郎の店に出入りしていた沢井喜三郎と入籍して、ここから親子3人による「どこへいっても木賃宿ばかり」の放浪の生活が始まる。芙美子8歳、キク43歳、沢井喜三郎まだ23歳のことである。

三人はまず長崎にたどり着く。芙美子はここで「ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京町近くの小学校」へ通っている。この長崎での生活を振り出しに、佐世保・下関・鹿児島と行商の旅を続け(『放浪記』の記述は、実際の足取りとは若干異なるようである)、ついに「明けても暮れても煤けて暗い空」を持ち、「砂で漉した鉄分の多い水に舌がよれるような町」直方へとやって来た。

直方で芙美子は小学校をやめ、須崎町の粟おこし工場に日給23銭で通ったり、扇子や化粧品、あんぱんを行商して歩いたりしていた。

さてここからは、西徳寺境内地にある記念文学碑の裏書に目を移す。そこにはこの記念碑の由来が次のように刻まれている。

 建立
 直方市明神町
 商人宿 入口屋
 宿主 栗原末吉の長女 渡辺ヤエノ
 明神町入口屋に投宿した直方滞在時の林芙美子は12才 渡辺ヤエノは15才であった。「ヤエ姉ちゃん、ヤエ姉ちゃん」と言って共に遊んだ活発な娘さんだったそうである
 その12才の少女が手甲脚絆を身につけて明神町から知古芝原を通り新出渡し(現三中横)を渡って木屋瀬から香月や中間の炭坑の町を辻占の箱を抱えて売り歩いていたと言う
 その疲れ果てての帰り、渡し船を上ってからうす暗くなった広い洪水敷地の道をとぼとぼと歩いたであろう姿が目に浮かぶようである
 「放浪記」の中では大正町の馬屋と書いてあるが 事実は明神町の入口屋であり宿主が馬と馬丁を置いて搬送業と宿を兼業していたので馬の記憶から馬屋になったのであろう
 栗原、渡辺家の菩提寺である西徳寺殿の御理解に依り此處に林芙美子の文学碑を故人渡辺ヤエノが遺した資産で建立して渡辺ヤエノの永代供養とするものである

平成五年五月吉日 代表発起人 栗原宗数
仝文責 松尾義明
発起人 栗原一郎 栗原数明
松尾次郎助 松尾 乙
冨永宗作 冨永義春
田代春美 栗原伸雄
協力 覚音山 西徳寺
石匠飯塚市 大塚石材㈱

つまりこの記念文学碑は、芙美子親子が投宿していた入口屋宿主 栗原末吉さんの長女、渡辺ヤエノさんの縁でここ西徳寺の境内に建てられたのである。入口屋は現在その姿を残してはいないが、聞いたところによると今の神正町「和田かしわ店」の横あたりにあったらしい。入口屋、つまり『放浪記』中の馬屋なる宿のお上さんは文中にその姿をあらわしているが、ヤエノさんの名は『放浪記』に見ることが出来ない。しかし芙美子が「石油を買いに行く道の、白い夾竹桃の咲く広場で、町の子供達とカチュウシャごっこや、炭坑ごっこをして遊んだ」中に、おそらくヤエノさんがいたのではないかと想像される。芙美子の居いた宿から、当時の西徳寺の姿は充分見えていたはずだが、残念ながら「多賀神社」の名は出てくるが、「西徳寺」の名は出てこない。一度ぐらい遊びに来たのではないかと、虫のいい空想を巡らす自分がおかしい。

その後、折尾行きの汽車に乗って直方を離れた芙美子親子は、筑豊各地を転々と渡り、広島県尾道市へ辿り着く。この尾道で再び小学校に編入した芙美子は、尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学する。ここで文学の手ほどきを受け、地方新聞に盛んに詩や短歌を投稿、また絵にもその才能を見せたという。大正十一年(1922年)女学校を卒業した彼女は、東京の大学に通う恋人を追って上京。しかし、結局二人の恋は実らず、再び東京で放浪生活を始めることとなる。この頃、破局のショックを癒やすために日記を書き始めたようであるが、この日記を元に連載を始めた「秋が来たんだ―放浪記―」が昭和五年(1930年)、『放浪記』として出版されると瞬く間にベストセラ―となり、ここに女流作家 林芙美子が誕生するのである。それからも『風琴と魚の町』や『清貧の書』等の作品を次々と発表、日中戦争勃発後は中国・東南アジア各地に従軍作家として赴おもむき、敗戦後も『うず潮』や『浮雲』を発表し常に女流作家の第一線で活躍し続けたが、昭和二十六年(1951年)、朝日新聞に「めし」を連載執筆中、過労のため急逝するのである。48歳の生涯であった。

林芙美子にとっての直方は、どんな所だったのだろうと考える。「門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒があくびをしているような町だった」と直方を振り返る芙美子であるが、その思い出は決して悪いものではなく、「商売は一寸も苦痛ではなかった」といい、また「自分がどんなに商売上手であるかを母に誉めてもらうのが楽しみであった」という彼女にとっては「このころの思い出は一生忘れることが出来ない」ものとして記憶されていたようである。

記念碑の発起人の一人に、どうして境内地のあの場所に石碑を建てたのか尋ねたところ、芙美子の居た宿屋が見渡せる場所だからという返事が返ってきた。なるほど、確かにその方向であると思った。彼女の直方での貧しいながらも輝いていた日々と、その後の波乱に飛んだ人生を思うとき、この記念碑ぐらいは静かで目立たぬ場所でひっそりと年を重ねるのも悪くないと思えてきた。林芙美子も渡辺ヤエノさんもきっと同意してくれることだろう。

合  掌

西徳寺住職 篠田 尊徳
西徳寺だより24号より


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