CLOSE

SCROLL

境内のご案内

梵鐘

西徳寺の山門をくぐり、本堂の前で軽く一礼。視線を何気なく右側に向けると、鐘楼(鐘撞き堂)の中に二つの梵鐘があるのが分かります。

この二つの梵鐘のうち、今現在使用しているのは、当然上から吊るしてある鐘。その脇に鎮座しているもう一つの鐘は、実はひびが入っていてまともに音すら出ないとか。しかし、この鎮座まします割れ鐘こそが「福岡城の鐘」と呼ばれる福岡県指定文化財の梵鐘(総高119.0㎝、鐘身高89.0㎝、底径65.0㎝)なのです。

そもそも「お城の鐘」とはどういうことかというと、福岡城の絵図に「太鼓櫓」・「時櫓」・「時計櫓」等の文字が散見されるように、時計のない時代、人々は定期的に鳴らされる太鼓や鐘の音をたよりに時間を知り、生活のリズムを作っていました。西徳寺の鐘にも「城市において十二の時を告げ…」と刻まれ、また「樓鐘は遠くに韻き 晝夜に辰を報ず」と詠われていることから、この鐘が福岡下の人々に広く時を告げていたことが窺えます。今と違って、巷の騒音がほとんどない時代のことですから、よほど広い範囲に時を告げる鐘の音が響き渡っていたことでしょう。

ところで福岡城の時を告げる鐘について、その銘文(鐘に刻まれた文字)を記した資料が、福岡藩の青柳種信という人物によって今に残されています。「福岡城本丸時鐘銘」と名付けられたその資料に目を通して見ると、第三代福岡藩主 黒田光之の命により鐘が鋳造されたことや、十二の時を遠近の人々に知らせていたことなど西徳寺の梵鐘と同じような内容を見て取ることが出来ますが、その内容は完全には一致していません。そしてどちらの銘文も、江戸時代の儒学者「貝原益軒(篤信)」によって書かれたことが記されているのですが、西徳寺の梵鐘には「寛文4年(1664年)」の年号が書かれ、青柳種信の資料には「寛文11年(1671年)」の年号が残されています。同じ福岡城の時鐘銘でありながら、どうして現存している西徳寺の梵鐘の銘文と、青柳種信の残した「福岡城時鐘銘」とは違うのでしょうか。

西徳寺梵鐘銘文

筑州福岡城樓鐘銘
  並 序
 寛文甲辰之夏
國君筑前候兼侍從源姓
 松平氏光之公命于鳧
 氏改鑄樓鐘一口而告
 十二時於城市使億萬
 之人咸知順時趨事之
 期可謂邦國之重噐也

國君之佳惠其施博哉丁走
 欽奉尊命爲之銘曰
    紫陽城邑 形勝絶倫
    樓鐘韻遠 晝夜報辰
    賢君善政 臣民懐仁
    社稷維福 萬歳遇春
    寛文四年仲夏吉旦紫陽後生貝原篤信記

(追銘)
    明治三十四年一月補工
      豊後國鑄物師渡邉弥兵衛謹再繕
             當村 植木淺次郎
人見 許斐又四郎     仝  瓜生瀬三郎
             人見 嶋津吉六

當村 田中順平      當村 桒野吉次郎
             人見 柳澤治作
市津 長谷川曻      當村 桑野芳三郎
             仝  久保田又四郎
人見 嶋津幸平      弁城 香月榮造
             大坂 □□堀(消している)
             畑  瓜生定治
             當村 瓜生貢平
當村戸長
   瓜生又彦      當村 並河勘次郎
                瓜生貢平(消している)
人見 嶋津市平      上野 久原治郎八
仝  同苗實平      弁城 光井荘兵衛
市井 長谷川荘三良    仝  香月惠七
仝  同苗荘次良     上野 太田利三郎
弁城 香月冶郎吉     宮床 田中新市
             市津 宇野直次良
 維□明治七年甲戌之天十月上旬求之矣
      正蓮寺第十三世住職
            長川良藏代
            桒野嘉七
          発起商量
            長谷川傳六

福岡城の完成は慶長12年(1607年)のことですが、その当初から時鐘が存在したのかどうかは定かではありません。今現在の資料の中でいえることは、第三代福岡藩主 黒田光之の治世中である寛文4年(1664年)に、まず西徳寺に現存する鐘が鋳造され福岡城下に時を告げていた。ところがこの鐘にひびが入るといった問題が生じたため、7年後の寛文11年(1671年)に再び時鐘が鋳造され、青柳種信はその鐘の銘文を記録していたという事になるでしょう。

青柳種信が目にした寛文11年製の鐘は、残念ながら現存していません。歴史上のどこかの時点で消失しています。では、西徳寺にある梵鐘は、割れ鐘となった後、どのような道のりを歩んで来たのでしょうか。実は西徳寺の梵鐘には、貝原益軒の銘文に続けて、後の人が新たに書き加えた「追銘」が施されています。その追銘を読むと、この鐘は明治7年(1874年)に田川郡方城町の正蓮寺住職が購入し、明治34年(1901年)に豊後の国の鋳物師によって修繕された事が分かります。この鐘が正蓮寺に至った経緯は定かではありませんが、購入が明治7年ということから判断して、明治維新後の混乱の中で市中に流れたと考えるべきでしょうか。

時代は下り太平洋戦争末期、ご存知のように全国の寺院は梵鐘をはじめ、金属製の仏具を供出させられます。西徳寺もその折に梵鐘を供出していますが、この正連寺にあった福岡城の時の鐘も同じく供出され、鋳つぶされる事となりました。金属供出令で失われた金属製品は数知れず、それが様々な分野の研究の妨げになっている事が指摘されていますが、この福岡城の時の鐘は運良くその難を逃れ、戦後、直方駅前のご門徒さんの鉄工所に至り付いたものを先々代住職 篠田龍雄が購入したようです。その時点では、この鐘がそんな貴重なものと分かっていた訳ではなく、供出した鐘の代わりという程度の認識だったようです。(しかし購入時からこの鐘は割れて撞けなかったとのこと。)この鐘が、福岡城の時の鐘と分かったのは、先代住職 篠田正成の恩師・九州大学教授の干潟龍祥先生の指摘を受けての事だそうで、その指摘を受けて、昭和34年3月31日にはれて福岡県指定文化財となりました。 

その後、昭和47年、西徳寺は新たに梵鐘を購入したため、この福岡城の時の鐘は修繕を受けることなく今のように「鎮座」した姿となっています。残念ながら今現在、福岡城下の人々が聞いた鐘の音色を聞くことは出来ませんが、こうした歴史を踏まえてこの鐘の前に立つと、聞こえないはずの鐘の音が聞こえてくる気がするのは私だけでしょうか。

合   掌

篠田 尊徳
西徳寺だより20号より


お車でお越しの方

【九州自動車道】
〈福岡方面から〉九州道「鞍手IC」下車 一般道で約4km。
〈北九州方面から〉九州道「八幡IC」下車 バイパス・一般道で約7km。

公共交通機関でお越しの方

【JR筑豊本線】
福北ゆたか線(折尾~桂川) 直方駅下車 徒歩約4分
【平成筑豊鉄道】
伊田線 直方駅下車 徒歩約4分
〒822-0034 福岡県直方市山部540番地
お電話でのお問い合わせ
TEL:0949-22-0636
ファックスでのお問い合わせ
FAX:0949-22-0667
メールでのお問い合わせ
MAIL:saitoku@ace.ocn.ne.jp