境内のご案内
湖白庵諸九尼終焉之地碑
山部の随専寺裏の墓地に、江戸時代中期の女流俳人諸九と、その夫浮風との比翼墓があります。
俳人有井浮風は、元禄十五年(1702年)直方藩士有井十蔵の子として生まれました。父十蔵は、弓術の師範、書記として、直方藩第四代藩主黒田長清に仕えた人でした。
浮風の幼名は新之助。幼い頃から神童の名が高く、『湖白庵行状記』に、「五、六歳の頃より、手習わずして筆の走り凡ならず。嬉戯するに、竹弓を以て的を射るに、十矢を放して八矢をあやまたず」とあります。14、5歳の頃にはすでに俳句に親しんでおり、享保三年(1718年)俳人松尾芭蕉の高弟の志太野坡が直方に来たとき、多賀宮の神官青山文雄らとともに入門、湖白庵の号をもらい、俳名を浮風と名乗りました。
18歳の時には藩主長清の書記となり、有井軍治義保と名を改めました。弓と剣の達人だったといわれます。20歳の頃から肺を患い療養につとめましたが、他の病気もあったため、27歳で官職を退きました。
退職後は各地を歩き、俳諧の指導、医術の施療をこととしながら、何事にもとらわれない風流の生活を送りました。
元文五年(1740年)師の野坡が死にました。浮風は大坂に上り、野坡百か日の俳諧興行を行い、再び諸国行脚の旅に出、やがて筑後の竹野郡塩足村の俳人市山の草庵丈日堂に草鞋を脱いだのでした。
丈日堂には、浮風の教えを受けるため、近郷の多くの俳人が出入りしました。その中に、後に諸九となる永松なみがいました。
なみは正徳四年(1714年)筑後の竹野郡唐島(現久留米市田主丸町)の庄屋永松十五郎の娘として生まれ、近郷の中原村の庄屋永松万右衛門に嫁ぎ、不自由のない生活を送っていました。たまたま、丈日堂の浮風に俳句を習い、出入りしているうちに、夫から浮風との仲を疑われ、周囲の人々からも偏見で見られるようになり、居たたまれず、旅立った浮風の後を追って故郷を捨てたのでした。唐島の永松家に伝わった系図には、「女子なみ、中原村永松万右衛門エ嫁 欠落(駈落ち)シテ俳諧宗匠諸九」とだけ書かれていますが、不義密通は最大の悪とされた当時の、家出というなみの決断は、火のようなものであったに違いありません。
筑後を去ったなみは、浮風にともなわれ、やがて大坂に移りました。
宝暦元年(1751年)、浮風は野坡の十三回忌集を出しました。そして野坡の後を継ぐ者として、俳壇で次第に重きをなしていきました。なみもまた俳人として研鑽を重ね、浪女、鴡鳩、つづいて諸九の名で句を発表していきました。
宝暦十二年(1762年)、二人が俳諧活動の拠点としていた京都の千鳥庵で、浮風がその61歳の生涯を閉じました。思えば、傷をなめ合うように、助け合い、いたわり合ってきた二十年の漂泊の生活でした。諸九は49歳になっていました。
浮風の百ヶ日にあたり、諸九は剃髪して蘇天と名を改め、
◇剃捨てて見れば芥や秋の霜
の句を残しました。
その後、諸九尼は浮風の追善集『その行脚』を編み、各俳諧集に出句、各地を行脚するなど、本格的な俳諧活動を行い、広くその名を知られるようになりました。
明和四年(1767年)、諸九尼は京都に湖白庵を結びました。明和八年には、只言法師を伴って、芭蕉の奥州行の跡をたどり、松島まで旅行、紀行句文集『秋風の記』を発表しました。これによって諸九尼の名は更に高まりました。
安永七年(1778年)、諸九尼は京を去って直方に帰り、山部に草庵を結んで、浮風の菩提を弔い、後進の指導につとめる俳諧三昧の生活に入りました。
山部の庵から福智連峯に昇る月を見、京都東山を懐かしんで、
◇月今宵爰も東に山はあれど
と詠んだこともありました。
天明元年(1781年)九月十日、諸九尼は波乱にみちた68歳の生涯を閉じ、山部の随専寺に葬られました。戒名は「天利院高譽諸九蘇天」でした。
諸九尼は、多くの句を残しましたが、なかでも
◇生けるものあつめてさびし涅槃像
◇ものいはば声いかならんをみなへし
◇衣には何をめすらん雪佛
◇やがて着るものの淋しき碪かな
などが、その慈悲の心を伝えているように思われます。
なお、山部の諸九尼の草庵は、西徳寺横の尾仲家の屋敷内にあったとされており、そこには当時の川原勝麿市長の字で「諸九尼終焉之地」と刻まれた碑が建てられました。
平成十八年(2006年)、この土地は「諸九尼終焉之地」の碑と共に尾仲家から西徳寺に譲られました。
その後西徳寺第三駐車場として整備され、今に至る草庵の地は主に保育園職員が使用しているため、草庵の事、石碑の事を知る御門徒さんは決して多くないのではないでしょうか。
テレビ番組の影響で俳句ブームとなっている今、夏井いつき先生も魅力的ですが、直方所縁の「諸九尼」もどうぞお忘れなく。
(『続 直方むかしばなし 直方碑物語』より転載の上、一部西徳寺住職 篠田尊徳加筆)