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境内のご案内

直方機関区殉職の碑

古町門徒寄進の西徳寺裏門から本堂に至る参道の両側、右に直方駅、左に直方機関区の石碑がそれぞれ建立されている。

明治以来日本産業発展の主役であり、エネルギーの原動力「石炭」。国内屈指の筑豊炭田輸送基地として、多数の職員が日夜働いていた直方駅と機関区。石炭と鉄道の町として繁栄した直方の町の陰に、苛酷な条件下で日夜働いていた若い国鉄職員が、その尊い生命を失った数多くの殉職事故があった。

左側石碑の表面、「直方機関区殉職者の碑」と大きく書かれたその下には「くるしかったろう、いたかったろう、二度とこの苦しみは起こすまい」、裏面には「昭和四十五年十月建立 門司鉄道管理局長 高橋浩二謹書」とある。石碑前には、きれいな大理石に尊い二十二名の殉職者の氏名と年令が死亡年月日順に刻まれている。これは平成二年十月、当時の花田機関区ОB会々長発議で、将来ОB会員がいなくなってもこの尊い犠牲者の菩提を弔うためお寺に永代供養をお願いしようと懇志を集められた、その記念の石板である。さらに石碑左側には、地味だが力の強い頑張屋で、石炭輸送の主役として働き通した「九六〇〇形式の動輪」、なつかしの「六九六三八号のナンバープレート」。

退職後は毎年出席する機関区ОB会。その追悼法要で住職と共に声高らかに「讃仏偈」をお参りしながら、どうしても忘れられない痛ましい殉職事故の事を思い返していた。

今より五十五年前の昭和二十二年七月、西八幡構内での石炭列車脱線転覆事故。当時二十四才の私は、復員後日田での機関士科を卒業し、機関士見習いとして機関車の実務訓練の毎日であった。事故の報に、区長命で教養機関士らと現場に急行、目前に繰り広げられた余りにもひどい事故の悲惨な状況。あの大きな鯨を思わせるD50のボイラーが横転し左側に埋没、未だ圧力があるのか時折蒸気を噴出するあわれな状態。六十両を超える石炭満載の車両重量が、脱線と同時に機関車に押しかけたのである。機関元の貨車四・五両が石炭と共に炭水車に覆いかぶさり機関室は見るもあわれ、機関士席は埋没の状態である。救援に駆けつけた多数の職員は、埋まったままの寒竹機関士の救出に必死の作業中であった・・・。この悲しい殉職者の葬儀は西徳寺で行われ、私らはお手伝いの後、涙の焼香をする。直方を十時に発車して西八幡まで往復、十三時に帰着するという交番の中でも息抜きの短い勤務、二人とも予想もしない事故との出合い。機関士は二十四才で新婚早々だったとか。乗務前に床屋に寄ったと聞く。又、機関助士の酒見君はまだ十七才、事故直後は存命で助けてと呼んでいたが、下半身をボイラーと座席に挟まれ、駆けつけた職員らはどうする事も出来なかったそうである。事故現場は、敗戦の虚脱からやっと立ち上がり、祖国復興の原動力・鉄工生産拠点として操業開始の八幡製鉄所構内。戦時中は激しい空襲を何度も受け、特に施設は大型爆弾投下で壊滅的な被害、広い構内は爆弾投下で穴だらけの状態だったと聞く。そこに運悪く七月の梅雨期つゆきの長雨、幾多の悪条件が重なってこの様な大事故となった様である。

人の世の運命とは一寸先は闇であり、明日の事も判らぬ人生を送る私達。石炭と共に栄えた直方の町と機関区。春秋の多賀様のお祭りには臨時列車を運行して賑にぎわった直方の町、全盛期には百両近い機関車を有し、千人を越える職員が働いていた機関区。石炭から石油へのエネルギー革命の余波でその名前さえ失い、石炭と共に忘れられようとしている機関区。今の高度成長の陰に、尊い殉職者がいたことを思い出させてくれる機関区ОB会には生ある限り出席して、若い時代を語り合える集いを生き甲斐としたいと思う私である。

西徳寺門徒 白石 仁
西徳寺だより27号より


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