境内のご案内
直方駅殉職の碑
建立当時の苦心談
除幕式に流した感激の涙
殉職碑建立の発端は、昭和16年3月、当時の三好駅長の発案によるもので、場所は市内山部町西徳寺入口付近ときまった。
採石作業の総責任者は、駅手世話掛の浜野益市氏で、岩熊三好氏が現場の責任者となり約10名の駅手が作業員となって建立の準備がすすめられた。
採石作業は同年の4月下旬から直方市畑、川渕と市内の安入寺ではじめられたが、晩春の太陽は肌を焼くように強烈で、そのうえ機械の進歩した現代と違って、金てこ一本での大石の採石作業は並大抵の仕事ではなく、全員が汗と泥にまみれての難じゅうの連続であった。
川底から大きな石が道路ばたに引揚げられたときは、思わず全員がバンザイを叫んだ。この時のうれしさはいまでも忘れていない。
採石した石約35トンを採石現場から西徳寺の建立場所に運び終わったのは、昭和16年5月の中旬であった。
初夏の太陽に照りつけられた石は、まるで焼石のようで、作業員の全身は水をかぶったような汗で、ややもすればへたばりがちであった。こうしたとき浜野総監督の「気合を入れんか」のしったがとび、その声に励まされてまた全員が、がんばりつづけた。
こうした採石作業や運搬作業は、非番日や月1回の公休を返上しての作業であったが、しかし私たちは、いったんやろうと決心したからには、どんなことでもやりとおすという気構えで作業にあたった。この気概こそ川筋男のど根性でもあり、また誇りでもあった。
殉職者の中に若い方がめだっているのは、担当作業の関係もあるが、戦時中などは人手不足のため、見習期間もなく、ぶっつけ本番で実作業についたためではないだろうか。われわれ作業員は、作業中、不幸にも若くして国鉄の輸送業務に殉じた方方のみ霊の鎮魂の一助ともなればと思って、だれ一人不平、不満ももらさず、こん身の努力を傾注した。そのためか作業中1件の傷害事故もなかった。
除幕式に参列し、三好駅長の手で幕が落され「直方駅殉職之碑」の金文字が初夏の太陽にさん然と輝いたときこそ、3ヶ月間の苦労がいまこそ報いられたと思わず感激の涙がこぼれた。
この感激は一生忘れることができないだろう。
元直方駅 旅客掛 吉村 賢一
※備考
- 殉職碑の題字は当時直方駅庶務掛村尾智寿氏の健筆になる。
- 殉職碑の筆石と台座石は、本駅の石工に依頼建立したものである。
職 名 | 殉職者氏名 | 年齢 | 殉職年月日 |
信号掛 | 西田 善太郎 | 48才 | 大正14.811 |
操車掛 | 西 貞夫 | 25才 | 昭和15.2.20 |
連結手 | 山内 正雄 | 18才 | 昭和3.10.3 |
駅 手 | 山下 武男 | 17才 | 昭和12.1.12 |
駅 手 | 野島 朝夫 | 16才 | 昭和13.10.25 |
連結手 | 野尻 義孝 | 16才 | 昭和15.6.22 |
連結手 | 坂井 清美 | 17才 | 昭和16.12.1 |
連結手 | 森下 久則 | 18才 | 昭和16.12.1 |
連結手 | 村井 昭俉 | 15才 | 昭和17.4.28 |
連結手 | 周防 寛 | 17才 | 昭和17.9.10 |
駅 手 | 花村 春光 | 15才 | 昭和19.6.10 |
駅 手 | 井上 来 | 15才 | 昭和19.6.10 |
操車掛 | 萬田 関松 | 42才 | 昭和19.10.5 |
連結手 | 田原 秀春 | 16才 | 昭和20.1.18 |
駅 手 | 高津 幸雄 | 14才 | 昭和20.7.9 |
連結手 | 杢田 清志 | 22才 | 昭和21.7.22 |
連結手 | 松元 昭典 | 20才 | 昭和23.4.25 |
運転掛 | 内丸 淺雄 | 44才 | 昭和24.3.18 |
連結手 | 西迫 幸雄 | 21才 | 昭和25.5.20 |
操車掛 | 諸藤 茂行 | 25才 | 昭和26.1.23 |
連結手 | 宮元 重治 | 22才 | 昭和26.5.16 |
踏切警手 | 舌間 義雄 | 20才 | 昭和28.7.21 |
操車掛 | 白川 光夫 | 32才 | 昭和34.7.1 |
操車掛 | 山本 利則 | 37才 | 昭和38.5.2 |
『直方駅80年のあゆみ』 昭和46年10月発刊 より転載