宗旨
15.めぐまれる信心
~他力の信心とは~
信じない信心
「信心をめぐまれる」。この言葉には、浄土真宗の要があらわされています。ふつう「信心」というと、私が殊勝な気持ちで神仏などを信じようとするこころであると思われるでしよう。しかし浄土真宗の信心は、そのように私が信じようとするこころではありません。浄土真宗の信心は、阿弥陀如来からめぐまれる信心です。阿弥陀如来の本願力によってめぐまれる信心なので、「他力の信心」といいます。私たちは、阿弥陀如来よりめぐまれるこの信心ただひとつをたねとして、浄土に生まれ、仏とならせていただくのです。
壊れない信心
もし、浄土真宗の信心が、私が殊勝な気持ちで阿弥陀如来を信じることだとすると、どういうことになるでしよう。煩悩に満ちた私のこころは、ふらふらと揺れ動き続けます。一時は「ああ、ありがたい」と殊勝な気持ちになったとしても、何かのきっかけで「神も仏もあるものか!」というこころに陥ることだってあるでしよう。そのように揺れ動く私のこころをたねにして往生成仏するなど、到底できません。
私が往生成仏することができるのは、私のこころではなく、阿弥陀如来からめぐまれる信心をたねにするからです。阿弥陀如来の「かならずすくう、まかせなさい」という大悲のおこころは、決して変わることも壊れることもありません。そのおこころをそのままめぐまれるのです。それが浄土真宗の信心です。つまり信心の本体は、決して壊れない阿弥陀如来のおこころなのです。
待ちわびない信心
たとえば「合格間違いなしと信じています」というのは、まだ合格が決まっていない時にいうことです。合格が決まってから「合格を信じている」という人はいないでしょう。つまり、一般に「信じる」という場合、肝心のことはまだ確定していないわけです。
しかし浄土真宗の信心は違います。私に他力の信心がめぐまれる時は、すなわち、私の往生成仏が決定する時なのです。私が往生成仏するのはいのちが終わる時ですが、それは「予定は未定」といった不確定のことではなく、信心をめぐまれるいまこの時、私の往生成仏は揺るぎない事実として決定するのです。
ですから、後ですくわれることを待ちわびるのが信心なのではありません。いま、確かなすくいのなかにあるということ。それが信心をめぐまれるということです。